歴史ある食堂を継ぎ、震災をきっかけに新たな業態に挑戦。
若者たちが集える店を!さきがけとなり居酒屋を開店。渡辺さんのしあわせみつけた、移住物語。
歴史ある「川竹食堂」を継ぐためにUターン。
中越大震災をきっかけに、食堂をリニューアルし、 見附市内に若者が集える「居酒屋」をオープンした JAPANESE DINING 川竹 渡辺オーナーの、幸せみつけた物語。
ご家族の構成・状況
渡辺さんがUターンしたきっかけを教えてください。
大学は東京で、卒業後は都内の割烹などで仕事をしていました。
我が家は元々、見附市内で戦後間もない頃から「川竹食堂」という食堂を営んでいたのですが、その川竹食堂を切り盛りしていた父の急逝がきっかけで、まずは一旦見附へ帰ってくることになったんです。
川竹食堂は歴史ある店だから閉めるわけにもいかないし、継ぎたくはなかったのですが長男なので仕方なく・・・そんな思いでのUターンでした。
食堂は畑違いですし、2年くらいしたら東京に帰ろうかなと思っていたんです。
妻も東京の出身ですし、はじめは見附へ帰ることも反対していたので、「まぁ2年くらいで東京に戻るから・・・」と言いながら、説得して移り住んだという感じでした。
その後、渡辺さんの人生に大きな変化をもたらす「中越大震災」がおこったわけですね。
食堂を継いで1年半経った頃に、あの「中越大震災」が発生しました。
あの日から、いろんな価値観がガラッと変わった気がします。
地震発生時は天ぷら鍋から火柱が立ったり、ベビーベッドで寝ていた、当時まだ生後間もなかった下の娘のすぐ数センチ脇に大きく鋭利なガラスの破片が突き刺さっていたり。
生きた心地がしませんでしたね。当然店も営業不能になってしまいました。
そんな時にお得意様から、「復活してほしい!」という励ましを受けたんです。
そんな応援の声をきっかけに、再開しようと奮起したのです。
以前から、見附の若者達は、見附市内で飲食することがあまりなく、長岡や三条などわざわざ外へ出かけてしまっているのが気になっていました。 それを何とか食い止めることができないか・・・そんな想いから若者が集えるような「居酒屋」というスタイルでお店を再開することにしたのです。
食堂から居酒屋という業態にチェンジすることに、不安はなかったのですか?
正直、家族や親戚・友人には反対されました。
それまであまり見附には無かった、「若者が集える」お店をオープンして、地元の若者達の反応はいかがでしたか?
はじめの頃は、「見附で飲める店が出来て、運転代行料金などを使わずに済むからとっても助かる!」という声をたくさんもらいました。
初めは見附へのUターンに反対でいらっしゃった奥様について、何かお気持ちの変化はありましたか?
子どもを通じて、そして居酒屋をオープンしたことで、妻の気持ちの変化が生まれたのではないかと思います。
渡辺さんから見附を客観的に見て、見附で商売をするうえでのアドバイスを教えてください。
見附はどちらかというと保守的な町・市民性なのだと思います。
渡辺さんがご商売を通じて感じている見附への想いや、これからの展望をお聞かせください。
私は現在、見附へ外から人を呼ぶ事のできるツールを育てるため、うなぎの養殖を行っている「プロジェクトU」という事業に携わっています。
JAPANESE DINING 川竹
〒954-0057 新潟県見附市新町1-11-7
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